日時 | 1980年11月30日(日) 12:30開場 13:00開演 |
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会場 | 東京・中野サンプラザホール |
司会 | 林美雄(TBSアナウンサー)、若林真弓 |
審査員 | 青木 啓(ポピュラー音楽評論家) 鈴木 邦彦(作曲家) 服部 克久(作曲家) 広瀬 一郎(NHK・音楽番組班ディレクター) 本田 悦久(ビクター音楽産業株式会社洋楽部長) 前田 憲男(作・編曲家) 前田 優継(音楽教室本部ゼネラルディレクター) 森 ミドリ(作曲家・演奏家) 芳野 雅人(音楽教室本部チーフディレクター) 東松 宏(ビクター音楽教室本部長) |
部門 | ジュニア部門、シニア部門、グランプリ部門 |
主催 | 日本ビクター株式会社/ビクター音楽教室本部 |
後援 | シンガポール航空 |
使用楽器 | EO-M8、EO-M10F、EO-M20 |
賞 | 優勝、第2位、第3位 (各部門優勝者はシンガポールへ音楽交流派遣) |
ゲスト | 前田憲男、阿川泰子、岡本章生とゲイスターズ |
年間を通じて、文字通り最大のイベントであるビクトロンコンクール決勝大会が、1980年11月30日(日)、東京・中野サンプラザホールで華々しく開催されました。今年、記念すべき第10回を迎えて、フェスティバル、地区大会予選、地区大会とあいつぐ激戦がくりひろげられてきましたが、決勝大会も例年をしのぐ盛り上がりを見せ、出場者にはもちろん、観客にも深い感銘を与えました。
第10回からは、ジュニア、シニアの両部門に、初めて東南アジアからの出場者が参加、各部門優勝者のシンガポール音楽交流派遣とあいまって、一段と国際色をつよめました。また、決勝大会前に、東京新聞の夕刊でも紹介されるなど、社会的注目度も高まっています。このように、10年間という伝統の重みが生かされ、ひとつの区切りとしての集大成ともなった第10回決勝大会。ここでは、その概要をお伝えします。
当日は、快晴とまではいかないものの、まずまずの好天でした。今回は、開演3時間前から早くもお客さまが並び始めるという熱心さ。出場者側はもちろんのこと、お客さまの入れ込みも高まっているようでした。
観客で目立ったのは、その年齢層が大きく広がってきていることでした。これまでは、概して子どもの比率が高かったのですが、家族連れ、それもお年寄りまでを含む大人が増えています。また、第一線で活躍、内外で高く評価されているジャズ・ピアニスト加古隆氏なども顔を見せ、注目を浴びました。
場内の緊張が高まる中、いよいよ開演。オープニングは、名倉加代子ジャズ・ダンスチームのダイナミックなダンス。たいへん華やかなものになりました。林美雄、若林真弓らの軽妙な司会にのせて、ジュニア、シニア両部門出場者の紹介、審査員の紹介と流れるようにプログラムが進んでいきました。
華やいだ雰囲気が一転してひきしまり、いよいよジュニア部門のスタート。今回は、全体的にバラエティに富んだ選曲となり、それだけビクトロンの可能性が広がっているといえるでしょう。たとえば、ジュニア部門でみても、クラシック、テクノ・ポップス、ラテン、ジャズ、民謡、ディスコ、フュージョンとまさに多彩。このような音楽性の広がりに加えて、もっとも伸びが著しいと評価されているジュニア部門の演奏は、されに飛躍したものとなっていました。
ジュニア部門に引き続き、シニア部門の演奏が行なわれました。シニア部門出場者10人中4人までが男性であったことが、今回のシニア部門の特徴。男性のパワーとダイナミックさに刺激されて、女性の出場者も、それぞれの力を出し切った演奏を行ない、どちらかとえいえば伸び悩み気味だったシニア部門は、いつにない熱戦となりました。東南アジアからの代表が司会者からの紹介があり、インターナショナルな雰囲気を高めました。
ビクターMIC店ニュース(1981年1月1日号)
ファミリー通信第10号(1980年12月25日)